黄金ペアの“正統な派生モデル”は実現せず

1976年にはウラッコの派生モデルとしてシルエットが誕生した。シルエットはベルトーネからの提案によるもので、ガンディーニのペンによる、いわばビッグマイナーチェンジ版である。ウラッコの2+2から2シーター化、タルガトップの採用、ピレリP7(50扁平)、前後スポイラー、オーバーフェンダーの採用によりオリジナルのウラッコのイメージは大きく変わった。
しかし、当時チーフエンジニアでありCEOでもあったパオロ・スタンツァーニはウラッコの“正統な派生モデル”として実は1台の(シルエットとは異なった)プランを温めていた。
「次は本当に自分がいいと思うクルマに取り組もうと考えた。ショートホイールベースの2シーター。ボディは軽く、コンパクト。ミウラというランボルギーニのアイコンを受け継ぐ、カウンタックの後継モデルの開発に全力を注いだんだ」とパオロは語った。

そのモデルこそが1974年のトリノショーで発表されたブラーボである。ガンディーニの手によるコンパクトなウエッジシェイプボディ。ホイールベースはウラッコ比で200mm短い2シーターボディ。300馬力の新しい3リッター V8エンジンが搭載されたものだ。

「重厚なモデナのスーパースポーツへのアンチというべき1台だった。ゴーカートのような身軽さは、ミウラ、カウンタックに続いた私とガンディーニによる新しい提案だった。まさに“クンタッチーナ(小さなカウンタック)”と私たちは呼んでいたよ」とパオロ。


まさにマルチェッロ・ガンディーニ、パオロ・スタンツァーニという黄金のペアが熟考した自信作であったのだが、前述したような経済的背景からお蔵入りとなり、代わりにウラッコのマイナーチェンジ版たるシルエットが誕生したというのが経緯である。そのシルエットもランボルギーニ社の経営破綻のため、ごく少数しか生産されることはなく生産終了となった。

そして1981年に後継モデルとしてジャルパが発表された。経営破綻したランボルギーニの舵取りを行ったジュリオ・アルフィエーリ(元マセラティ チーフエンジニア)の手による手堅いマイナーチェンジだ。ジャルパは排気量が3.5リッターへと拡大され、ボディのリスタイリングをベルトーネが担当したが、ガンディーニは既に社を辞しており、関わっていない。
時代に翻弄されたウラッコ、そしてその系譜であるが、その根底にあったパオロ・スタンツァーニの理想が様々な障害により開花しなかったことは、とても残念に思えてならない。
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文・写真=越湖信一 EKKO PROJECT 写真=アウトモビリ・ランボルギーニ 編集=iconic