結果的に正しい方向だった“折衷案”

一方で難航したのがスタイリング開発だ。ルイジはカウンタックのDNAをブラッシュアップすることこそ、ランボルギーニの生きる道と考えていた。当然、ガンディーニが一押しだ。「しかし、話はそう簡単ではなかった。当時、ミムランが新たなオーナーシップを握ったのは君たちも知っていると思う。しかし、開発のトップを牛耳っていたのはジュリオ・アルフィエーリ(マセラティの元チーフエンジニア。デ・トマソとの確執から1975年にマセラティを追い出された)だったのも一つの事実だ。彼はカウンタックの成熟を終わらせるのなら、全く異なったコンセプトで行くべきと考え、旧知のジウジアーロにスタイリング開発を依頼してしまったんだ。」とルイジ。ここでひと悶着あった。
すったもんだの末、ようやくガンディーニで行くという結論が出たのだが、実はその後の方が大変だった。ガンディーニがまとめた少々エキセントリックなスタイリングにクライスラーサイドから物言いが入ったのだ。そう、クライスラー内部も一枚岩ではなかった。デザインセンターを仕切っていたトム・ゲイルにしてみれば、彼のテイストと全く違ったガンディーニのデザインは“尖りすぎていた”ように思えたし、アイアコッカがルイジやガンディーニらに好き放題やらせているのも癪に障ったのだろう。トム・ゲイルは早速、クライスラーデザインセンター総動員で、ディアブロのデザインプロポーザルを幾つも完成させた。まさに事態は“戦争”だったとルイジは苦笑する。


結果としてガンディーニのアイデアをベースにクライスラーの細部に関わるプロポーザルを加えた、いわば折衷案が完成した。果たしてその出来はと言えばなかなかのものであったと思う。ルイジも「ガンディーニのシャープなディテイルを採用していたのなら、ディアブロのスタイリングの陳腐化は想像以上に早かったのかもしれない。ああ、ディアブロのスタイリングは私自身、悪くない結論だったと思っている。」と語っている。
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そう、カウンタックとディアブロでは、その時代背景が全く違っていたのだ。ニッチなマーケットを狙ったライバルたちも現れ始めていたから、幅広い顧客をターゲットにしなければならない時代になっていた。そういう観点からすると、よりマイルドで、一般受けするモデルに仕上げられたディアブロの方向性は正しい。なによりディアブロはクライスラーの本拠である北米マーケットにおいて、そのイメージリーダーでなければならないという責務が課せられてのだから…。
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文・写真=越湖信一 EKKO PROJECT 写真=アウトモビリ・ランボルギーニ 編 集=iconic