上質さと走行性能を限りなく向上させたBMWもうひとつの顔

世界の目の肥えたクルマ好きを魅了し続けるアルピナブランド
アルピナの物語にはいつも勇気づけられる。なぜならそれは、その当時のクルマ好きであれば誰もが掴み得たチャンスを、信念と勇気をもって実践したサクセスストーリーだからだ。
1960年代。BMWは起死回生となるコンパクトミドルクラスのスポーツサルーンを発表する。
BMW1500、いわゆる“ノイエクラッセ”(ニューシリーズ)である。このモデルこそが名の知れた事務機器メーカーと、その跡取りでクルマ好きの息子の人生を変えた。彼の名はブルカルト・ボーフェンジーペン。父の会社の名がアルピナである。
1500を購入したブルカルトはすぐにその高いポテンシャルを見抜く。物足りないエンジンパワーを解消すべく大型キャブレターへの換装を試みたところ、案の定、性能が劇的に向上した。工夫と実践、結果がセットになったチューニングにブルカルトはのめり込み、「この道(=チューニング)で生きていこう」と決意する。ここまでは取り立てて珍しい話ではない。今も昔も、それくらいの決断なら日本のクルマ好きだって下している。
ブルカルトはBMWのチューニングに的を絞った。折しもノイエクラッセが欧州中で大ヒット。販売台数に比例するかのように問合せが増えた。商機ありと踏んだブルカルトは父親のタイプライター工場の片隅でノイエクラッセ用オリジナルチューニングキットを作り始める。キットには“アルピナ”の名が誇らしげに添えられていた。
1965年。ブルカルトは仲間とともに自らの会社をおこす。その名も「アルピナ・ブルカルト・ボーフェンジーペン有限&合資会社」。社員数わずかに8名のスタートだった。
レースやコンプリートカーで証明されたアルピナの実力
実は物語の本番はここから始まる。高品質で高性能なアルピナ製パーツはBMW AGの人間の目に留まり、なんとディーラーで保証付きで販売されるようになった。ブルカルトはさらなる発展を期して、極限性能の検証とブランドアピールを兼ねてモータースポーツ活動を開始。ほどなくアルピナのレーシングカーがサーキットを席巻すると、その功績を再びBMW AGが認めた。撤退するワークスチームの代わりにヨーロッパツーリングカー選手権活動を取り仕切ることになったのだ。
アルピナはモータースポーツ活動でも頂点を極めた。ところがブルカルトはモータースポーツでの成功に満足することはなかった。’78年にモータースポーツ活動から完全に手を引くと、限りある資本をコンプリートカーの製造と販売に集中させたのだ。3シリーズや5シリーズ、6シリーズをベースとしたコンプリートカー生産を始めたアルピナは、いつしか100名を抱える企業に成長していた。
’79年にはとある熱心なエンスージアストによって日本へも初めてアルピナ(E21B7ターボ)が上陸している。そのエンスージアストとはドイツ人で元レーサーのニコ・ローレケ氏であり、アルピナ製コンプリートカーの並外れた性能に惚れ込んだ氏が’82年に始めたビジネスこそが、日本市場におけるアルピナの歴史というべきニコル・オートモビルズであった。
アルピナ本社はというと’81年になんとドイツ政府公認の自動車製造会社になっていた……。