米国の大学卒業後はどうされたのでしょうか?
「卒業後、帰国しました。ちょうどヨウジヤマモトの海外事業部が設立されることになり、英語の話せる人材の募集に応募したところ採用されたのです。ブランドはアバンギャルドなモノトーンの世界ですよね。着てみると楽で、斬新かつ特別感もある。また、山本耀司さんは素材にも非常にこだわりが強い方でした。この時代はイッセイ ミヤケ、ニコル、ビギといったブランドの人たちと、みんなでキャンティ(※)に集まって、六本木で遊んだものですよ。仕事が忙しくて、私たちは午前3時まで仕事をしてから遊びに行っていました」
※東京・六本木エリアのイタリア料理店。特に1970年代、80年代は文化人、著名人が集うサロンのような役割を果たしていた。
DCブランドが非常に勢いのあった時代ですね
「パリコレでも日本人デザイナーが注目され始めた時代です。パリコレや展示会の準備、卸業のとりまとめなどを担当していて、とにかく忙しかった。このとき、一番大切だと学んだのがブランディング。バイヤーのみなさんは、自分のお客様の気に入りそうなものを仕入れています。でも、私は自分のブランドのコアな部分の魅力を相手(バイヤー)に伝えて、それをお客様に提案して買ってもらえるように誘導していました」
ヨウジ ヤマモトには何年ほど在籍されたのでしょうか?
「5年くらい勤務したのち、ニコルで働くことになりました。ニューヨークコレクションに参加するにあたり、現地オフィスを開設することになって、声をかけてもらったのです。それで私は1985年から1990年までニューヨークに赴任。ニューヨーク勤務はうれしかったですね。前職もニコルも自社ブランドを着なくてはいけません。でも、そのときにはやっと買えるようになっていたブルックス ブラザーズを、ときに買うこともありましたね。マンハッタンに会社がマンションを借りてくれて、バブル景気のニューヨークで自由に仕事をさせてもらい、プライベートも充実していました」

アメリカではどんなお仕事を?
「アメリカの人に買ってもらうために、国民性を理解しようと思い、すべての州を巡ることにしました。一度には回れないので、時間を見つけては各地へ向かうのです。結局、ノースダコタ、サウスダコタ、ワイオミングには行けませんでしたが、そのほかはすべて足を運びました。当時のアメリカでファッションビジネスのチャンスがあるのは東海岸と西海岸、ごく一部の都市だけだと理解して、今後のビジネスは、このエリアに絞るしかないとの結論に至ります」
「展示会を開催して、アメリカのバイヤーや、TVネットワーク、現地メディアの人たちと知り合うことができました。ショールームがマディソン街にあって、ロイ・シャイダー、デブラ・ウィンガー、キャンディス・バーゲンといったスターが訪れることも。また、アンディ・ウォーホルもよく足を運んでくれましたよ」

