サディスティック・ミカ・バンド始動【ロングインタビュー】作詞家・松山猛とその時代#7

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——なるほど。ファーストアルバムの歌詞を見ると、松山さんの宇宙や時間というものに関する世界観が色濃く出ているような気がしますね。

松山 そうだね。『銀河列車』っていう曲とかね。あの頃、すごくSFとかファンタジーを読んでいたから、そういう影響があったんだ。既に加藤のソロアルバムに入っている『アーサーのブティック』っていう曲では、「空の果てに腰かけて」というフレーズを書いてるけどね。その頃からそういう嗜好性はあったけど、より宇宙っぽくなってるんですよ、この時期がね。

——こないだもちょっとお聞きしましたが、レイ・ブラッドベリとかの影響だったり。

松山 レイ・ブラッドベリ、大好きだね。あと、フレドリック・ブラウンって人。今、名前思い出せるの、それぐらいだけど。その辺はよく読んだ。どっちかっていうと、加藤はもっと早くからそういうのを読んでたね。だから、加藤からの影響みたいなところはありますね。ブラッドベリを最初に貸してくれたのは加藤だったし。

京都で知り合った頃から、あそこのお母さんも多分そうだったと思うけど、ミステリーだとか大好きな人だったからね。加藤が早川のSFのシリーズいっぱい持ってたのは、そういう影響もあったんだよ。

——それこそ松山さんは「中学時代に弁論大会で『人類の未来と宇宙』という話をした」とおっしゃってましたね。

松山 それはまったく受けなかったけど(笑)。でも、そういう嗜好性って昔からあったのかもね。宇宙は不思議だったから、よく、空、見てましたね。昔って、今ほど空が汚くなかったから、星もよく見えたし。中学生の頃は、一番ブラッドベリとか読んで影響を受けた時期だったね。

——ミカ・バンドのファーストには、『宇宙時計』という曲もありますが、既に時計には関心があったんですか?

松山 うーん、いや、まだそれほどでもなかったんじゃないかな。最初にビンテージウォッチ買うのは、この時期よりちょっと前だったけど。前にも話したと思うけど、72年にラングラージーンズのために、アメリカ西海岸を車でまわって音を拾って歩いたとき、サンフランシスコで買ったグリュエン。今もあるはずだよ。

原宿生活、セントラルアパート、レオン、そして『Made in USA catalog』

——ミカ・バンドのアルバムのジャケットデザインには関わっていらっしゃらなかったんですか?

松山 ファーストは違うけど、2枚目の『黒船』は僕のアルバムデザインなんです。

——メンバーが空を飛んでるようなヴィジュアルがすごくいいですね。

松山 撮影は鋤田正義さん。中面では、長崎・出島のヴィジュアルとかも使ってるんだけど、神田の古書店で見つけてきた本から取ったりして。

鋤田さんとは、『POPEYE』のファッションページとか、いろいろ撮ってもらったりしていたし、ご近所だったんですよ。僕らは原宿に住んでて、セントラルアパート(編注:当時、最先端のクリエイターやメデイア関係者たちが多数事務所を構えていた、伝説的なアパート。表参道と明治通りの交差点にあったが、1990年頃までに閉鎖され、1998年に年取り壊された。)に鋤田さんの事務所があったから。

サディスティック・ミカ・バンド始動

——国立からどういう流れで、原宿生活が始まったんですか?

松山 国立から73年ぐらいに原宿に戻ってきたんです。穏田の裏原宿あたり、昔は暗渠だった、今キャットストリートって言ってるところ。その竹下口に近い方にあったアパートで共同生活。また、そこも変なアパートだったね。そこもグループで住んでたっていう。 今風に言うとシェアハウスだね(笑)。

ファッション関係の人もいたし、ヘアデザイナーとか、カメラマン、コピーライター、あとプロの潜水夫。革細工屋もいたな。7、8人いたかな。ときどき神戸から桑名正博や京都の木村英輝さんも立ち寄っていたね。ちっちゃいアパートに、もういっぱい。それで、みんなの荷物も制限があってね。あまりたくさん持たないようにって。

そこのボスみたいなのがカワイさんっていって、メンズ・ファッション関係の人だったね。その頃はもう、彼は仕事辞めてたのかな。変わり者というか、不思議な人でね。仕事に行くと人間の話をして、友達には仕事の話をするっていう。

2025

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