エディトリアルの仕事へ
——雑誌の仕事を始められたのは、どういうきっかけだったんですか?
松山 東京に出てきてから、いろいろやりたいことを加藤やいろんな仲間に話したりしている中で、出版関係の人を紹介してもらったんだ。
——そもそも京都では、雑誌関係の仕事もされていたんですか?
松山 いや。エディトリアルは、やりたかったんだよ、京都ではグラフィックをやってたから。ちょうど『an・an』とかのビジュアル雑誌が出始めた頃で、そこに可能性あるかなと思ったんだね。
でもどっちかっていうとエディトリアルでデザイン的なことやりたいのに、そういうことやれる人は世の中にあふれてて、僕が入り込む隙間はあまりなかった。逆に「あなたは文章書けるんだから、書きなさいよ」っていうふうに言ってくれる人がいたりして。人が言ってくれることのほうが正しい場合もあるかもな、と思ったのが、物書き的な仕事をするきっかけになった。
——当時の平凡出版、現在のマガジンハウスですね。そのときは誰からお声掛かりがあって?
松山 あの当時、全ブス連を名乗ってた、川村都さんだとか、亡くなった堀切ミロさんだとか、面白いお姉さんたちがいてね(編注:セツモードセミナー出身で、スタイリストなどとして活躍していた川村都氏、堀切ミロ氏らが、「全ブス連」なる団体を結成。当時メディアを賑わせた)。
西麻布に『ちゃらんか』っていうスナックがあったの。彼女らがママ役というか、オーナーが他にいたのかよく分かんないけど、とにかく毎日いたんです。そこに僕も暇だったからよく行ってて、そこで知り合って。あの当時、どうやって仕事してたんだろうね、今みたいに携帯もないしね。平凡出版の仕事をしてたときは電報だったかな。
——ええっ、電報ですか!?
松山 自由通りに住んでいたときは電話なかったから。連絡は電報。すごいでしょ(笑)。
『ちゃらんか』には当時の業界人がいろいろやって来て、そんな関係でいろんな人に紹介してもらったり、なんやかんやしてた。
それで、堀内誠一さん(編注:グラフィック・デザイナー、アートディレクター、絵本作家などとして活躍。『an・an』『POPEYE』『BRUTUS』『Olive』はじめ、平凡出版〈現マガジンハウス〉の雑誌のロゴやエディトリアル・デザインも多数手がけた)に会いに行ったんです。70年の春だったかな。
僕はデザインの仕事をしたくって行ったんだけど、その辺がやっぱり簡単ではなくて。そんなことやってる人いっぱいいたからね。
そしたら、堀内さんに「ああ、京都から来たの? 来週、京都行くから案内してくれない?」みたいなことを言われて。僕は「えー、来たばっかしなのに」って思ったんだけど(笑)。堀内さんは、「来たばっかりの人の生の情報が欲しいから。じゃあ一緒に行こうよ」って。
『an・an』の創刊2、3号目だったのかな、女性誌の京都特集としては最初の頃のものだったと思うけど、当時の京都の若い人が立ち回る場所を紹介する記事を手伝うことになって。
例えば、今でも鴨川にはカップルがいっぱいいたりするけど、そういうところだったり、あと、歌舞伎役者あがりの人がやってた『開化』っていう店。そこは、何とも明治趣味な、ちょっと面白いところでね。喫茶店なんだけど、市松のステンドグラスがあったり、大きなオルゴールがあったり。京都時代、よく行ってたんだけど、そこでロケさせてもらったんだ。
そうやって『an・an』のお手伝いをしてるうちに、雑誌の仕事も面白いなと思い始めてね。デザインにこだわることもないわ、みたいな。そうこうするうちに、『平凡パンチ』を手伝うようになった。
——その頃は、自由ヶ丘、蛇崩にお住まいだったわけですよね?
松山 そうだね。で、その後、国立に引っ越すんですよ。71年か、72年かな。都落ちって感じでね。そこはね、ヒッピー村みたいな所だったね。ヒッピーアパートメント。いろんなヤツがいたね。舞台装置やってる人とか、売れない彫刻家の卵とか、ミュージシャンとか、学生もいた。
——その当時のことですから、全員長髪みたいな感じで?
松山 僕も長髪だったからね。フレアジーンズにロンドンブーツ履たりしてた。でもね、笑っちゃうんだけど、ヒッピーの知り合いの紹介で行ったから、同じようなヤツが出てくると思っていたんだけど、みんな丸坊主だったの。
——え?
松山 これは書いていい話かどうか分かんないんだけど、僕が国立に行く直前まで、みんな捕まってたんだ、ハッパで(笑)。
——なんか時代を感じるというか、なかなか強烈なエピソードですね(笑)。国立時代は作詞活動としては?
松山 1回ちょっと作詞活動から離れた時期だったね。加藤のソロアルバムを、ちょこちょこ手伝ってたぐらいで。
——加藤さんの1枚目のソロ・アルバム『ぼくのそばにおいでよ』が、1969年12月リリース。これは、まだ京都にお住まいだった松山さんと、加藤さんとのカセットテープのやり取りから生まれたもの、ということになりますね。2枚目の『スーパー・ガス』が71年10月リリース。これは、全作品の歌詞を松山さんがお書きになってます。
松山 加藤にべったりじゃなくなってきて、国立のヒッピーの中に1年ちょっといたかな。僕の借りた部屋には、どかんと床屋のいすが置いてあったね、それから天体望遠鏡もあったな。それを覗いてみたことはなかったけど。とにかく不思議というか、謎なアパートだったな。
そこは、みんな貧乏時代でね。そんな中にあって、僕は『平凡パンチ』のグラビアのキャプション書く仕事をしてて、それもある時期から毎週になったの。だから、毎週5万円もらってたんだ。
——当時としては、というか、この出版不況の現在で考えても、結構いいギャラですよね。
松山 そうだったね。原稿書き終わると、当時、銀座の編集部から国立まで、帰りはタクシーだったからね。
——いい時代ですね!
松山 うん。みんな、そうだったからね。それで、国立のヒッピーアパートメントでは、みんな僕が帰ってくるのを待ってんだよ。しょうがないから、みんな連れて、「邪宗門」って喫茶店行ったり、銭湯行ったりね。僕がヤツら10人ぐらい食わしてた(笑)。
——なかなか豪気でしたね。その時代は、作詞はちょっと一区切りで、雑誌メインになって行ったと?
松山 加藤のソロアルバム『スーパー・ガス』の仕事が終って、そんな感じになったかな。
<次回に続く>
撮影/稲田美嗣 文/まつあみ 靖
バックナンバー:
作詞家・松山猛とその時代#1/1960〜70年代のミュージックシーン
作詞家・松山猛とその時代#2/加藤和彦との出会い
作詞家・松山猛とその時代#3/イムジン河のこと
作詞家・松山猛とその時代#4/ザ・フォーク・クルセダーズとイムジン河
作詞家・松山猛とその時代#5/1969年、テレビとフォークグループ