当時のファッションは?
「営業で担当したのは英国発の老舗トラッドブランドです。当然、自分のブランドの洋服を着なくてはいけないわけですが、ブリティッシュトラッドは好んで着ていました。このとき受け持っていた松屋銀座のバイヤーから、いろいろと紳士の着こなしについて教わったことが私に大きな影響を与えています。当時、そのバイヤーから『すごい』と教えられて、あるクラシコイタリアのブランドのサンプルを拝見する機会がありました。ベースはブリティッシュなのに、ディテールが違う。英国一辺倒だった私には衝撃でしたよ」
【猿渡さんの私物を拝見 PART2】(写真2枚)
企画時代、記憶に残るヒット商品は?
「メンズのカジュアルブランドの企画時代、課長とともに、ジャケットとスラックスを担当していました。機能的なポリエステル素材の(家庭で)洗えるトラベルジャケットを開発したところ、大ヒットして嬉しかったですね。そのうち、企画でありながら、社内で仕事をするだけではなく営業的な動きもするようになっていきました」
「その後、2001年に新ブランドがスタートすることになります。それが三陽山長です。当社では未開拓の靴ブランドだったことから、殴られても前に進めるような人材が必要だったようで、そちらに配属されました。部署は本社とは別の場所にある小さなビルの中です。本社の人とも顔を合わせないものだから、別会社に出向したと思う人もいました(笑)。三陽山長は、日本の高級靴を目指していた山長印本舗を三陽商会が引き継いで発展させたブランドです。2001年9月の代官山の路面店オープンに向けて5月から、私自身も内装工事に参加していました」
異業種の商品開発と新規出店とは大変ですね
「直営店のノウハウがなくて非常に苦労しました。午前中はお店作り、午後から靴工場へ出向く日々です。前身を立ち上げた方から工場を紹介していただいて顔を出すものの、(工場の方に)なかなか靴を作ってもらえません。職人の方にすれば、『靴を知らないだろう』との思いもあったでしょうし、三陽商会の人間が突然、顔を出すようになったのですから仕方ありません。相手にしてもらえなくてもめげずに毎日通い続けました。すると、最初は名前も呼んでもらえなかったのが、『三陽』、続いて『猿渡』と呼ばれるようになって徐々に打ち解けられたのです」
「最初の1年で人間を認めてもらい、次の1年で靴の理解が深まりました。当初から、工場とのやりとりがスムーズにいかないことを会社に報告せずに、自分でなんとかしようというのが私の考え。いちいち報告していれば、きっと『うまくいかないなら止めてしまえ』と言われたでしょう。でも高校の野球部で培った負けん気があったし、どうしても続けたいほどスゴイ腕前の工場でもありました」