オリンピック準備委員会に名を連ねる理由は?
高校卒業後は、上智大学に進学。アイビールックの影響は大学卒業頃まで続いたものの、ファッションに心酔するということはなかったようである。
というのも、大学時代は体育会ヨット部に所属し、江の島や葉山(ともに神奈川県)の合宿所から学校に通うほど、打ち込んでいたからだ。ヨット部ではインターカレッジの関東大会でチーム優勝したほか、全国大会にも出場したほどの実力。現在、渡辺さんが日本セーリング連盟のオリンピック準備委員会に所属していることからも、当時の活躍ぶりがうかがい知れる。
「現在も学生時代も、ファッションは(自分の)外見上の印象をよくするものであるとの認識は同じです。でも、ファッションヴィクティム(※)にならないように、一線を引いていました。アメリカのアイビーリーガーたちは、ファッションに関心を持っているけれど、勉強も社会貢献もしていますよね。そんな精神性に共感を覚えていました」。
※ファッションの犠牲者の意味。ファッションに熱心すぎる人を指す。
誰もが知るコンピュータ企業に就職
大学を卒業して、渡辺さんが就職したのはIBM。ダークスーツを着て、猛烈にコンピュータの技術を習得しながら営業をこなした。
「3年、勤務している間にダークスーツを着ながら、相手からどう見られているか?を意識して装いの大切さを学びました」。
少し意外ではあるが、渡辺さんの初の海外渡航はIBM在職中だったそうだ。24歳で初めてシンガポールに出張し、名門シャングリ・ラ・ホテルに宿泊したのは今も良き思い出である。
25歳のとき、お父さんからの要望で家業の渡辺産業に入社した渡辺さんは、1年超の英国研修へ向かった。最初の5か月間は語学学校に通い、続く10か月間はデヴォン州にある生地メーカー、ジョン・ヒースコートで仕事を学んだ。デヴォン州は英国南西部にある牧歌的な場所。この地で渡辺さんは本当の英国カントリースタイルを実感したと語る。

DCブランドブームの時代の心境は?
英国研修を終え、帰国した渡辺さんはヨーロッパの生地の卸を担当。優秀な営業マンとして、会社に貢献を続けた。この時代、日本のファッション界に巻き起こっていたのがDCブランドブームだ。DCとはデザイナーズ&キャラクターズの略で、中小規模の新進アパレルによる個性的なファッションとして大いに注目を集めていた。世間の熱狂ぶりとは裏腹に、渡辺さんはDCブランドに魅力を感じなかったという。
「世の中がそれだけになっていたので、必要に迫られて買ったことはありました。でも、気に入るものはありませんでした。(伝統的な)ドレスコードに則ったものではないようで、当時のファッションには違和感がありました」。
その数年後には、また流行が変わり、それにともなって会社も成長していった。成長が著しかったのは1989年。背景にあったのはセレクトショップの躍進だ。DCブランドのブームが終わりを迎えたのち、アメリカやヨーロッパの製品を仕入れながら、オリジナル製品を並べていたセレクトショップが若者の心をつかんでいた。

マカラスターのセーターの輸入を開始
「以前は生地だけを扱っていた私たちが、1989年から製品を手掛けようと新規事業を始めたのです。つながりのあった英国大使館から紹介されて、まず取り扱いをスタートしたのがスコットランドのマカラスターのセーター。といっても、どう扱っていいかが、わからないので、生地を卸しているアパレルの女性デザイナーに相談してみました。すると、『ビームスさん、シップスさんが人気』と教えられて、営業に行くことに。一着が2万5000円から3万円くらいですから、売れないだろうと思いながら足を運んだら、たくさん仕入れてもらえたんですよ」。
マカラスターが順調な滑り出しを見せた渡辺産業の次のヒットブランドは、レザー製品のグレンロイヤル。一緒にスキーやトラウトフィッシングを楽しむほど、公私にわたり親しくなっていたマカラスターの社長から、紹介されたのが契約のきっかけだ。日本で小売価格が20万円ほどになるブリーフケースを、恐る恐る取り扱ってみたところ、心配をよそに売れ行きは好調。
その後、渡辺産業はジョセフ チーニー、ドレイクス、ラベンハムなど、英国好きにはおなじみのブランドの取り扱いを次々と始めている。