中学生時代、古着に出会いファッションの道へ
松島さんのファッションの目覚めは中学生の頃。家の近くに、洋服店は多くなく、馴染みがあったのは古着店だった。リーバイス501の価格が、貴重さや状態によって数千円から数十万円の幅があるのに興味を持ち、生地の色落ち、ステッチの退色具合といったことが「かっこよさの差」であることにも気が付いたという。
古着について踏み込んで話を聞くと、古くて貴重な名品や、再現性の高いレプリカ以外に、シルクで作られたフライトジャケットを作ってみるのも面白いのでは? といった独創的な話を聞くことができた。
「実際に存在したかどうかはともかく、上級士官が特注でシルクのフライトジャケットを着用していたなんて、いかにもありそうじゃないですか」。
決まった考えにとらわれず、ストーリを思い描きながら、古着をヒントに独自の世界を創造する。これが彼のクリエーションの魅力のように思えた。

学生時代に話を戻そう。高校を卒業して進学したのはファッションの名門校、文化服装学院である。松島さんによると、実は小学校から高校2年生頃まで、もうひとつ目標もあったそう。それは公認会計士。企業のコンサルタントに興味があったほか、節税のお手伝いをするなどで、国と対峙する立場にかっこよさも感じていた。
「最終的に、若いときにしかなれないからと洋服の道に進むことを決めました」と松島さん。
学生時代からパタンナーとして頭角を現す
文化服装学院に入学した彼を驚かせたのは、スカートをはく男性がいたこと。数々の著名デザイナーを輩出した学校だけに、個性的なファッションの学生がたくさん在籍していたのだ。あからさまに風変わりな装いに共感できなかった松島さんが当時愛用していたのはアメリカやフランスの古着。501のXX(ダブルエックス)やミリタリーウェア(M-41)などがお決まりだった。
文化服装学園では基礎科に在籍。2年生になると各自がデザイナーやパタンナーなど専門分野に分かれて進級する。
才能は早くも2年生で発揮された。19歳で学校に通いながら個人のパタンナーとして仕事をし、普通では考えられない金額を稼いでいたのだ。この頃、大人気だった海外のブランドの洋服が、なぜ、そんなに売れているのかが気になって分解・研究したことも。松島さんから見れば、ことさらに驚くパターンではなかったというが、これも電卓を分解していた幼少期の延長だったのかもしれない。

コレクションブランドに勤務して、のちに独立
文化服装学院を卒業し、少し時間をおいてから岡山県のアパレル企業に就職。1年ほど在籍の後、退職し、3か月の休職期間を経て、今度はコレクションブランドへ入社した。東京発の注目株であった、このブランドは、当時パリコレに参加を始めたころで、「自分が関わることで、ブランドをさらに伸ばせるのでは」との思いから入社を決め、企画生産を担当する。
3年務めたのち、25歳で退社し、いよいよ2015年6月にカンタータを設立。
テキスタイルへの並々ならぬ愛情
松島さんはカンタータの企画運営の一方、メゾンやアパレルを相手に高級服地の企画生産も行っている。服地(特に織物)に対する知識の深さは関係者の間でも有名だ。
「経糸と緯糸の組み合わせで、無限大にテキスタイルが生み出せます。シンプルなのに奥が深い」。
テキスタイルデザインと糸を元に織っても、仕上がりが想像した以上に素晴らしい場合もあれば、糸一本の違いで表情が大きく変わることも。彼曰く、織物は経糸と緯糸の足し算ではなく、さらに広がりを見せる掛け算なのだ。
中島みゆきさんは作品『糸』で経糸と緯糸を人のつながりに例え、幸せ(歌詞では仕合せと表現)を紡ぐ美しさをうたっている。そんなことも交えつつ、織物の魅力を説明する松島さんの思いを聞くと、こちらにもテキスタイルへの熱意が伝わってきた。