甦る『イムジン河』
——その後、加藤さんとの関係はどんな感じだったんですか?
松山 まあ、ちょっと離れてて。しょっちゅう会うわけじゃないけど、でも全く会わなくなってたわけじゃなくて。年に1回とか食事会みたいなのを加藤と北山と僕とが中心になってやってたんだ。
あるとき、モンキーズの『Daydream Believer』を書いたジョン・スチュワートが、日本にコンサートで来たので、みんなで見に行って、その後みんなで食事したんだよ。そのときに、加藤と北山がフォークル再結成する、しないみたいな話があったね。結局その日にね、「また、やろうか」みたいな話になった。
——それは何年ぐらいのことですか?
松山 ほらあれだ、日韓ワールドカップの頃……。
——2002年ですかね。(編注:ジョン・スチュワートは、2001年11月下旬に、20数年ぶりに来日公演を行なっている。ちなみに2008年に逝去している。)
松山 ワールドカップは2002年だったっけ? その頃に『イムジン河』を思い出してくれた会田晃さんっていうソニー系の音楽プロデューサーがいたんです。ワールドカップの頃に、なんかこうテーマになるような曲がないのかなと思って、彼はソウルに探しに行くんだけど、なかなかいい曲が見つからなかったらしい。それで、ソウルのレコード屋さんに行ったら若い店員が、「私、日本の歌、知ってます」って『イムジン河』歌ってくれて、「あっ、これがあった」っていうんで、「もういっぺんやりませんか」っていう話が出てきたんです。
それで、うちの息子が音楽やってたんで、実験的に彼の仲間たちと改めて『イムジン河』をレコーディングして、CDにしてリリースしたんです。この曲を、次の若い世代にバトンタッチしようという意味で。そうしたら、権利問題とか、あんまり文句が出てこなかったんだよ。
——それは、会田さんが、いろいろクリアにしてくれたということですか?
松山 『イムジン河』は、長い間JASRACに登録できていなかったんですよ。それを会田さんが動いてくれて、登録できたの。それがまた不思議なんだけどね、編曲権と日本語訳詞権みたいな形の権利をJASRACがつくってくれたんだね。もちろん原作者は原作者でクレジットされて。
それで、「じゃあ、フォークルもやる?」みたいな話になったんです。誰も文句言わないんだったら、ねえ。フォークルにとって、あの曲を直前まで行って発売出来なかったことは、トラウマだったからね。
——それで加藤さんとも割とお会いになるようになったと?
松山 ちょくちょくね。加藤は、もうその頃には安井かずみさんを亡くしてるわけ。彼には、なんか一緒にやる仲間がまた必要だっんだろうね。北山も「じゃあ、やろうよ」、僕も「じゃあ、書こうか」みたいな感じで。それで、『戦争と平和』とか、あの辺の新しい歌ができたの。
(編注:2002年3月21日に、ザ・フォーク・クルセダーズ名義でマキシシングルCD『イムジン河』が30年以上の時を越えてリリースされる。1968年当時発売中止となったオリジナル音源がそのまま採用された。カップリング曲は、『イムジン河』に代わりにフォークルの第2弾シングルとして発売された『悲しくてやりきれない』。これを受けて、2002年7月22日から12月31日までの期間限定で、加藤和彦、きたやまおさむというオリジナルメンバーに加え、THE ALFEEの坂崎幸之助が参加したフォークルが”新結成”され、同年10月にはザ・フォーク・クルセダーズ名義によるアルバム『戦争と平和』がリリースされた。)
——なるほど。
松山 でも、時代が変わっちゃってね。レコードからCDになり、CDからダウンロードになり。分かりやすかったお金の流れも、どんどん分かりにくくなってしまって。僕はもう音楽関連の仕事がメインじゃなかったからあれだけど、加藤にとっては、やっぱりショックを受けることもあったんじゃないかな?
あれだけいっぱい面白い仕事をやってきた人なのに、やっぱり時代はどんどん忘れていっちゃうっていうかね。最後の何年間かは、結構焦りがあったと思うよ。過去に付き合ったいろんな連中と、またアルバム出そうとしてたり。でも、それではなかなか通用しない時代になってきてたということかもしれないね。
——時代の求める音楽の嗜好性みたいなものも移り変わっていくと?
松山 うーん、嗜好性が変わっちゃったというのか、でも、わくわくする音楽がほとんどなくなっちゃったっていうかね。
盟友・加藤和彦との永遠の別れ
——加藤さんが亡くなったのは2009年10月17日。フォークル再結成からも6〜7年の時間が経っていましたが……。最初、訃報を聞かれたときは、どういった状況でしたか。
松山 その頃、またそんなしょっちゅう付き合ってない時期だったけど、周りにいた連中から電話が入って、失踪したって話が届いて。「そっち、連絡ない?」みたいに。一体なんのことだ?みたいになったんだけど、その半日後ぐらいに、亡くなったって分かったの。
—— 一時期、密に付き合って、いい作品を共に作った人を失うのは、かなりショックだったのではないかと思いますが。
松山 まあ、それはね。喪失感はありましたよ。ただ、ずっと不思議な関係で。北山も同じ思いだと思うんだけど、加藤は本当にスキップしていく人だからね。ずうっと一緒なわけじゃないんだよ。突然いなくなるのを、北山も僕も経験してるから。
——その延長でこの世界からいなくなってった、みたいな感じもあるんでしょうか?
松山 そういう意味では、何だろう、生きてる生きてないの問題はあるけど、しょっちゅうあったことかなっていう。加藤はね、不思議な人でしたね。
自身が選ぶ、ベスト松山作品
——松山さんご自身では、今までの作品の中で、自分はこれが一番っていうのは、どのへんの曲なんでしょう?
松山 うーん、こないだもね、京都の友人にそれ聞かれたの。そうだね、もう本当ごく初期の『オーブル街』とかは好きだなあ。東芝から出た最初のフォークルのアルバム『紀元貮阡年』(きげんにせんねん)に入ってんじゃないかな。
あとは、『9月はほうき星が流れる時』っていう、すごい長い曲。12番まであるんだよ。「長さに挑戦」って(笑)。僕にしては珍しいラブソングっていうか、喪失するラブソングなんですけど。相手が死んじゃって、あみかけのセーターが残ってるみたいな話にしたんだけど。
——『黒船』に収録されて、当時シングルカットされた『タイムマシンにおねがい』は、その後もいろんな人がカバーしている名曲ですが。
松山 まあ、『タイムマシン』は『タイムマシン』で面白い歌だったかなという気はするけどね。なにしろ、アンモナイトお昼寝してるからね(笑)。
——あれは、ちょっと超越してるナンバーだと思いますね。
松山 今、のんって、ほら、朝の連続テレビ小説『あまちゃん』に出てた……。
——当時は能年玲奈っていってた、のんちゃん。
松山 そう、のんちゃんが、あの曲を歌ってくれてたり。彼女は、高橋幸宏さんたちと一緒になって音楽やってるでしょう? なんかのパーティで彼女に会ったんですよ。びっくりしてたね。
——彼女は、松山さんのことは知ってたんですか?
松山 いや、分かんなかったんじゃない? 「歌ってくれてるんですか。松山です」ってごあいさつに行ったの。
——「この人が、この曲を作詞した人なんだ!」っていう感じだったんですか。
松山 ひゃあひゃあ言ってたよね。こんなジジイだとは思ってなかったんじゃない(笑)。
——『タイムマシンにおねがい』は、ほんとうに息の長い作品ですよね。ある意味、スタンダード化しているというか。でも、あの時代で作詞家としては、やり尽くした感があったということなんですよね?
松山 やっぱり若い頃しか回らない頭もあるんだよね。脳みそがみずみずしくないといけないのかもしれないね。
——いやいや。でも当時まだ30歳になってないですよね。
松山 20代だよね。
ずっとアマチュアのままで、という覚悟
——「ずっとアマチュアでいたかった」っていう、あの覚悟というか、決意というか、潔さというか、それもすごいなと思うんですが。
松山 まあ、いまだにそうですね。無責任に取られるかもしれないけど、プロっぽくありたくないというか。何なんだろうな、下手くそな生き方だと自分でも思うんだけど、そんなに興味があるわけではないプロの作曲家の人と組んで仕事をしようと思わなかったし、まあ、それが自分にとって居心地がよかったということだと思う。あんまり流れに組み込まれたくなかったしね。組み込まれたら楽だったかもしれないけどね。
——そこは反骨精神があるわけですよね。
松山 反骨してんのは面白いから。
——そうですよね。でも、その当時って、みんなが長いものに巻かれないように身構えていた時代のような気がするんですけどね。
松山 時代もどんどん変わってったしね。ファッションの世界もどんどん変わってったし。でも結局は、お金の流れを握ったやつは強いのよ。みんな、なんかそっちになびいちゃう。それが今の時代は露骨になってきてるから嫌なんじゃない?