子供の頃からミシンに親しんでいた
本連載のタイトルは、腕利き職人スーパースター列伝である。タイトルを聞いて「僕、スーパースターじゃないですけど、いいんですか? あっはっは」とベラーゴの牛尾 龍さんは笑う。神戸で10数年、活動を続ける彼の作る鞄や革小物の評判は、東京のファッション関係者の間でも知られている。上品で繊細な作風から、線の細い方が出てくるかと思いきや、現れたのはサッカー選手のような風格のある人物だった。
生まれも育ちも神戸の長田という牛尾さん。子どもの頃はずっと外で遊んでいる元気のよい子だったとのこと。長田は靴作りが地場産業であり、振り返れば、子ども時代の周囲の人たちはみな忙しくしていた様子が印象に残っている。

「母が靴のミシン職人だったので、子どもの頃からミシンは踏んでいました。作業はアッパーをつなぎ合わせる処理などですね。母はミシン工場を経営していて、仕事でいつも外に出ていました。母のミシンの手伝いをすることで、会話の時間を持てるのがうれしかったんですよ」。

震災後、アルバイトに明け暮れた
小学校、中学校と成績はよくなかったけれど、自分でなにかをしたいと漠然としたイメージだけはあった。当時、所属していたのは野球部。クラブ活動に面白い部分はあったものの、正直なところ、のめりこむほどではなかった。ついで高校では情報課に進学し、ITについて学ぶことに。
ところが、1995年、高校1年生のときに阪神淡路大地震が発生。なかでも長田は被害甚大で、牛尾さんは小学校に避難した。
「このときに大人たちの絶望した表情を見たんですね。そうなると、小遣いが欲しいなんて言えません。邪魔になってはいけないと、バイトに打ち込んでいました」。
アルバイトは居酒屋、喫茶店、キッチンなど飲食ばかり。高校卒業までに3軒ほど渡り歩くが、なぜか、どこでも結局は調理を任されることになった。居酒屋ではドリンクからお茶漬けまで、喫茶店ではすべてのメニューを作っていたというから、大した腕前だ。しかし、牛尾さんはそうは思っていなかった。

「なぜ、ホール担当にしてもらえないのかと(笑)。料理を作るのは責任が重いとの考えがあったんですね。なんにでも挑戦する気持ちを持ってはいたけれど、作ることばかりになってしまって。のちのち当時の店長に聞くと、『飲食は売るか、作るかしかない。キミはどう考えても作る方』と言われました」。
18歳で就職し、横浜へ
そんなアルバイトをこなしながら、無事に高校を卒業した牛尾さんは横浜の会社でIT系の職に就いた。仕事はプログラムに異常がないかを管理する業務。入社式が終わって、配属先が決まると、すぐに「長くは続けられない」との思いが芽生えてしまったという。
「もともと(学校の)情報課が、自分には面白くなかったんです。バイトの経験があったから、働くことを軽く考えていた部分もあったと思います」。予感通り、仕事を1年で退職した牛尾さんは神戸へと戻った。このままでは人生がうまくいかないと考えてはいるものの、自分に何が向いているのかもわからない。
ひとまずフリーターとして飲食の仕事をする日々が3年ほど続いた。このままいけば、料理の道に進むのが妥当と思いつつ、釈然としない自分もいる。