阪神淡路大震災が転機に
生地からアパレル製品までかかわる。まさにファッションの最前線で活躍していた石田原さんの毎日に、ある日、大事件が起きた。1995年1月17日に発生した阪神淡路大震災である。突然、仕事の環境が一変し、1999年、石田商事は自主廃業を決めた。同年、石田原さんは子会社だった縫製工場に代表取締役専務として着任し、仕事を開始。現場で営業をこなしていた石田原さんは、この工場を母体に新しい取り組みをスタートさせている。それまで日本的だった縫製技術を見直し、イタリアのテーラリングを取り入れた、より高度な技術と時代にあった製品を作れるテーラーに進化させたのだ。ミラノのテーラリングを習得したサルトが技術指導を行い、技術は飛躍的に進歩した。そして、この技術を元に2000年に誕生したのが石田洋服店である。

「教わったのはミラノの技術でしたから、まさにインターナショナル。日本の服作りとは全然違うし、自分たちが遅れていることにも気付けたのです。担当を決めて学び、教わった人がほかの人に指導をすることで、みんなが技術を吸収しました。以前から、職人さんたちの間にも自分たちの技術はこれでいいのか? との疑問があったようで、思った以上に変化を積極的に受け入れてくれました」。
今まではミシンで、まっすぐ正確に縫うことがよい仕立てであると思われていたのが、必ずしもそうではなく、イタリアの手縫いのよさや価値をみんなが理解できたことが印象に強く残っているという。
営業でありながら仕立ての技術も習得
石田原さんは現場では営業職をしていたが、業務内容は職人の領域にも入り込んだものであった。職人たちとともに実践でテーラリングを習得しているからこそ、カウンセリングをして採寸、仮縫い時の補正までこなせた。営業と、きめ細かい補正を一人でこなしてしまうのだから、注文したイメージと仕上がりに一貫性があるのは当然といえるだろう。
またタイミングもよかった。石田洋服店が起業したとき、以前から、テーラーを取り上げてほしいと、何度もお願いをしていた男性誌が、テーラー特集を掲載。この頃から、オーダーメイドが脚光を浴びはじめたのだ。
