【ロングインタビュー】作詞家・松山猛とその時代#4/ザ・フォーク・クルセダーズとイムジン河

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イムジン河が発売中止に

——それで、「帰って来たヨッパライ」に続く第2弾シングルとして「イムジン河」の発売準備が進んでいたのに、発売中止になってしまったという逸話は有名ですよね。

松山 まあ、それはいろいろあった。国交のない国のものだし、作者もまだ存命だったから。アマチュアのアルバムのときであれば、まだしも……。フォークルがプロになったときに、多分、この曲はすぐ出すだろうと思ってはいたのね。「ヨッパライ」が出て、ヒットして大忙しになって、彼らと会いたくても時間がないし、あいつらは忙しく動き回ってて全然連絡が取れない。もうぐちゃぐちゃで、次のを作ってるような時間もないような状況だったから。

そういう中で、レコード会社にしても音楽出版社にしても、ちゃんとした大人たちがやっているんだから、契約のこととか何とか全部調べて、整えてから出してくれるんだろうと思うじゃない、こっちは。だけど、つけ入られる隙がいっぱいあったんだね。

——発売中止は、どうやって知ったんですか?

松山 そろそろ「イムジン河」が発売だな、みたいな時期に、おふくろと「11PM」を見てたんだよ。そしたら、大橋巨泉さんが伊達メガネをかけながら「大変なことが起こりました、発売予定だった『イムジン河』が発売中止になりました」って。「えーっ! どうなってるの?」って。

——思いますよね。

松山 そしたら間髪置かずに、朝妻一郎さん(編注:「帰って来たヨッパライ」の原盤権を取得していた、パシフィック音楽出版の当時のディレクター。後に社長、会長を歴任)と、もう一人、昔の政治家の息子で広告代理店にいた西尾さんっていう人、その二人が僕のところに来て、「政治問題になっちゃって、韓国じゃ東芝製品の不買運動が起きそうだし、ここはひとつ、こらえてくれ」みたいな話だったの。

——大変な問題になっていたんですね。

松山 そうそう。どうなってるんだ、世の中はみたいな。

——それで、別のものを東芝で出さなきゃいけなくなって、サトウハチローさんに作詞を依頼したのが「悲しくてやりきれない」。松山さんとしては、不本意な部分もあっただろうと思いますが。

松山 まあ、事情が全然わからなかったから。もう、彼らとも離れていて接触できなかったし。彼らは彼らで、問題の多い曲を俺たちに押しつけたと思ったかもしれないだろうしね。よかれと思っても、なかなか世の中、うまくいかないことがあるんですよ。26万枚だったかプレスしたらしいんだけど、全部回収したらしい。しょうがないけどね。

——松山さんの手元に残っていたりしないですか?

松山 ない。あったら「鑑定団」に出しちゃうよ(笑)。まあ、そんなことがあって、何か嫌な世界だな、みたいなところもあったんだけど、結局10ヶ月で彼らは解散するわけ。またしても、ビートルズみたいに、さっと解散しようっていうね。もちろん、北山がまた学校に戻らなきゃいけないっていう、そういう事情もあったんですけどね。それで、あっさり。

でも、加藤はそこで考えたんだろうね。せっかく素地ができたんだから、音楽をしばらくやろうと思ったんじゃないの。レコード会社も、パシフィック音楽出版も、彼の才能を認めていたし。さて、じゃあ、彼がアルバムを出すとして、誰と組まそうかっていうので、僕のところにまた電話が来たんだ。

——で、どうなったんですか?

松山 僕は、一部屋やるからって社長に言われた広告代理店を辞めて、ちっちゃいデザイン事務所に移ってたんです。ほんとにデザインに専念したかったから。

——それも、やっぱり京都で。

松山 京都。でもひっきりなしに電話がかかってくるわけ、加藤からも、高崎一郎さんからも。とにかく1回東京に来いと。で、東京に行って、寿司屋で歓待してもらって。六本木の寿司清(すしせい)だったな。

そしたら、出たばっかりのソニーのカセットデッキを持ってきてて、これを預けると。加藤が書いた曲をカセットテープで送るから、それに詞をつけて返してくれたらいいって言うの。または、松山君が先に詞を書いてくれたら、加藤が曲に乗せて、で、そのやりとりをしてくれればいいんじゃないか、みたいな話になってきて。そのカセットデッキを持って、京都に帰ったの。

それで、加藤の最初のソロアルバムを何曲みたいなことが始まったら、加藤が、今のテレ東、昔は東京12チャンネルって言ってたけど、そこでトーク番組をやるから、おまえも一緒にやろうよって言うわけ。母親に「そんな話になってるんだよ」って言ったら、「京都でデザインをやってるのもいいけど、人がいろいろ言ってくれてるあいだは、あなたのことを気にしてる人がいるわけだから、駄目もとで行ってみたら。それで、駄目だったら帰ってくればいいじゃない」って。

——いいお母さんですね。

松山 後押ししてくれたの。すごくお世話になったデザイン事務所の社長にも言ったら、「いいチャンスかもしれないからやってみなさい」なんて言われて。で、そうだなと思って。

—— 一大決心ですよね。

松山 うん。それで物の試しに、がそのままになっちゃったの(笑)。本格的に東京に出てきたのは、69年の12月だったな。その前に、1年ぐらい、行ったり来たりしたのかな。当時、京都で付き合ってた女の子もいたんだけどね。

—— 一緒に行こうっていう話にはならなかったんですか。

松山 ならなかったね。しばらくしたら振られましたけどね(笑)。

<次回に続く>

撮影/稲田美嗣 文/まつあみ 靖

バックナンバー:
作詞家・松山猛とその時代#1/1960〜70年代のミュージックシーン
作詞家・松山猛とその時代#2/加藤和彦との出会い
作詞家・松山猛とその時代#3/イムジン河のこと

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