【ロングインタビュー】作詞家・松山猛とその時代#2/加藤和彦との出会い

bool(false)

>> この記事の先頭に戻る

「帰って来たヨッパライ」誕生秘話

——加藤さんと、ミカさんのところで会ったのは、フォークルができてからですか?

松山 フォークルがちょうどできたころだったね。それで、一番最初につくったのが「帰って来たヨッパライ」。

——最初なんですね。

松山 うん。加藤とこたつに入って、遊びながらっていうか、歌詞と曲と大体同時進行してた。一度死んじゃって、天国で酒を飲んで女にちょっかいばっかり出すから、もういっぺん人生をやり直せって言って、突っ返されて生き返るっていう話で、それにいろいろ脚色していったのね。

実は、これには僕の経験がベースにあるんだけど、裕福な家の子だった親友が、親に買ってもらったスポーツカーで、事故を起こして亡くなってしまったんだよ。ちょうどこれからモータリゼーションが始まるっていう時代だったから、そういう車社会に対する警鐘というのかな。でも、シリアスにしたら怖い話だから、トラクターに乗ってて、酒をくらって、畑仕事をしようと思ってドジって死んじゃう話にしようかなと思って。

それで、あの当時ですら誰も使ってない「オラ」っていう一人称がいいかなと。オレじゃ普通だし、のどかな田舎で死んじゃう設定なら、「オラ」かなと思って。最初は、トーキングブルース調だったんだけど、最終的にあんなふうになるとは思ってなかったんだけどね。

——そうなんですね。作詞者のクレジットは”フォーク・パロディ・ギャング”となっていましたが、これは松山さんと北山さんの共作的な意味合いだったんでしょうか?

松山 曲の骨格は、加藤と二人で作り始めたときに、もうだいたい出来てたんですよ。当時、僕は就職してた関係で、レコーディングとか全部に付き合えないからっていうことで、預けたら、北山がいろんな台詞を入れたり、いろんなものをポンポン叩いたり、みんなでワアワア言いながらやってたんだね。

——その感じは、すごく伝わってきますけどね。

松山 で、あんなふうになったっていうので、僕もびっくりしたんです(笑)。何でこんな音が入ってるの?みたいな。あの頃、加藤はビートルズの「White Album」とか、ものすごく聴いてたのね。ギターのここはこうだとか、ここは面白いなとか、テープを逆回ししたらグワーンっていう音になったりとか、あいつなりに「White Album」について研究していて、いろんな話をしてくれてたから。そういう要素や、興味が反映されてたんだろうね。

——フォークルとしては、「帰って来たヨッパライ」以前に、オリジナル曲はなかったというのは意外ですね。それがまたヒットにつながったっていうのも。

松山 でもアマチュア時代のフォークルは、あの曲はステージではやってないんだ。

——え、やってないんですか? 

松山 うん。北山は、親父も医者で「もういい加減、医者の勉強をしろ」って言われて、学校に戻らなきゃいけないから、あきらめて、解散するっていう話になったの。で、そのとき「ビートルズみたいにあっさり解散しようよ」って話してた記憶があるね。中締めみたいな感じだけど、とにかく一回活動休止しよう、その前にアルバム作っておこう、ってなったんだ。

——それが自主制作アルバム「ハレンチ」になるわけですね?

松山 まあ普通のアマチュアバンドだったしね、最初は300枚だけ仲間に買ってもらおうと思って、プレスしたんです。北山が親父から金を借りて。でも、全然売れなくてね。僕もジャケットの絵を描いたんだけど、初めは30cmLPっていう頭だったから、そのサイズのつもりでイラストを描いたんだけど、できあがったらサイズが間違ってて、盤が入らないっていうので、怒られました(笑)。

——そのアルバムに「帰って来たヨッパライ」も収録されたわけですね。

松山 全部で10曲ぐらいだったかな。「そうらん節」とか「コキリコの唄」とか、日本や海外の民謡やフォークソングのカバーが中心で、オリジナルとしては「帰って来たヨッパライ」だけだった。(編注:1967年に発表された「ハレンチ」には、12曲が収録された。アルバム発表当時のメンバーは、加藤、北山、平沼の3人体制。同年10月に開催された第1回フォークキャンプコンサート出演を最後に、フォークルは一度解散する)

——そのアルバムは、当初売れなかったのが、どこから火が付き始めることに?

松山 全く売れなくて、北山も困り果てて、借金ばっかりで、みたいなことを言っているうちに、神戸のラジオ局に、面白がってくれる女性のディレクターがいて、その人がラジオ番組で結構かけてくれたの。で、それをニッポン放送の亀渕さん(編注:亀渕昭信氏。「オールナイトニッポン」のラジオパーソナリティとして人気を博す。後年、ニッポン放送社長を務めた。)が聴いて、関西でこんなのがはやってるらしいよって、ゴーサインが出て。

(編注:このあたりの経緯を、少し補足すると——。神戸のラジオ局、ラジオ関西の深夜番組「若さでアタック」で、11月5日に「帰って来たヨッパライ」が流されたことをきっかけに、近畿地方でこの曲が密かなブームに。その情報をキャッチしたパシフィック音楽出版(現フジパシフィックミュージック)が原盤権を獲得。同社専務で、「オールナイトニッポン」のパーソナリティだった高崎一郎氏が、番組内でこの曲をかけ、全国的に話題が拡大。メジャー・レーベル数社からシングル盤リリースのオファーが相次ぎ、争奪戦の末、東芝音楽工業(後に東芝EMI→現ユニバーサルミュージック/EMIレコーズ・ジャパンレーベル)との契約が成立。1967年12月25日、東芝音楽工業の洋楽レーベル、キャピトルレコードから発売された。B面に「ソーラン節」を収録。283万枚を売り上げ、史上初のミリオンヒットとなった。)

次回に続く>

撮影/稲田美嗣 文/まつあみ 靖

バックナンバー:
作詞家・松山猛とその時代#1/1960〜70年代のミュージックシーン

2025

VOL.345

Spring

  1. 3
SmartNews
ビジネスの装いルール完全BOOK
  • Facebook
  • X
  • Instagram
  • YouTube
  • Facebook
  • X
  • Instagram
  • YouTube
pagetop