【ロングインタビュー】作詞家・松山猛とその時代#1/1960〜70年代のミュージックシーン

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「ちょっと面白い女の子たちが引っ越してきたんだよ」

——高校は、美術系でしたよね?

松山 京都市立日吉が丘高校に入学して、そこに美術課程というのがあって、映画、彫刻、日本画、服飾とかね。高校時代は、もっぱら絵とデザインだったけどね。でも、それで表現しきれない何かもあるんだよね。だから、その部分で、詩を書いたり。
あのころって、詩集を読んだりするのも、若者にとって普通のことだったから。母親の影響もあったね。僕の母親は明治の終わりの人で、学校にもそんなにちゃんと行かせてもらえなかったぐらいの田舎の人なんだけど、文学少女っていうか、本を読むのが大好きで、筑摩書房の日本文学全集なんかが家にあって。で、三好達治とか宮沢賢治を読みなさいって、母が薦めてくれたのね。そのへんの文章にはすごく親しんだね。

京都に聖母女学院っていうミッション系スクールがあるんだけど、校長先生はフランスからノルマンディー号とかの客船に乗って赴任してくるような由緒正しい学校で。その学校のバザーに行くと、船で出た料理のメニューをくれたり、白い鉛筆を買ったのも覚えてるね。当時、白い鉛筆なんて日本にはなかったんだよ、ほとんど緑だった。その白い鉛筆に、ある意味、美的感覚をすごくくすぐられたというか。それで、フランス語にすごく興味を持って、結構フランス贔屓になっちゃったの(笑)。そこからアポリネールとかランボーとかの詩集を読むようになったね、中学生の終わりぐらいかな。

——ミラボー橋の下をセーヌ河が流れ……、ですね。

松山 ミラボー橋、行きましたよ、好きでしょうがない詩だったから。行ってみると、何だ、こんなところであんなポエティックな・・・、っていう感じなんだけどね。アポリネールは、ミラボー橋でローランサンに振られて、傷心を抱えて書いたものだけど、あの詩は好きだね、今でも。あと影響されたのは映画かな。本と映画が、すごい媒体だった。映画はヌーベルバーグも見たし、あと、フェデリコ・フェリーニも好きだったね、映画を語るとキリないけどね。

でね、僕は高校卒業後、広告代理店に就職してデザイン関係の仕事をやることになるんだけど、その頃、こないだいっしょに行った新熊野神社の向かい側の横丁のところに、僕の大親友が住んでいて、彼が「ちょっと面白い女の子たちが引っ越してきたんだよ」って言ってたのね。「ああ、そう」ぐらいに聞いてたんだけど、何となく会う機会があってね、それが福井ミカ、後のサディスティック・ミカ・バンドのミカだったんだよ。

——えっ、そうなんですか!?

松山 ミカと、3歳離れた妹がいたね。お父さんが定年退職して、退職金でアパートを買って、和歌山から越してきた。まだ若かったというか、子供で、ミカは僕より二つ、三つ下だったかな。面白い子たちだったので、宿題を見てやったりして、交流が始まって。それである日、ミカが「こんな曲ができた」っていうから、「おう、見せろ」って言って、彼女のアパートに行ったんですよ。そうしたら、そこに背の高いヤツがいて、ギターを弾いてたの。それが加藤和彦だったんです。

——役者が次々と!

松山 ヤツのお母さん方のお祖父さんが、仏さんを彫る仏師だったの。岡倉天心の系譜で、日本美術史上、仏師としては名高い人で。お父さんは、金箔・金粉を扱う会社のサラリーマンだったのかな。で、仕事の都合で家族で京都に来て、おじいちゃんが住んでる近所に家を建てて、そこに住んでた。そこから何となく加藤との付き合いが始まって、家に来るようになったのね。そのうちミカが、「誰かに作ってもらった歌を歌うんじゃなくて、最近、自分たちの歌を作って歌う人が増えてるでしょ。加藤君は曲を作ってくるし、猛は詞を書けるから、二人で一緒にやったら」っていうので、二人で始めたの。まあ、言ってみれば、ミカがプロデューサーみたいなものだね。作詞をし始めるのは、高校を卒業したあたり。昭和で言えば40年、つまり1965年から作詞をし始めて、「帰って来たヨッパライ」は1967年だったと思う。

次回に続く

撮影/稲田美嗣 文/まつあみ 靖

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