オリジナルネクタイで人気店を新規開拓
実績を積んでいくとイタリアのメーカーの信頼が得られるようになり、変化が生まれた。今まではイタリアのメーカーが用意したなかから選ぶだけだったのに、オリジナルのサンプルを作ってもらえるようになったのだ。苦心の末、作られたオリジナルはセレクトショップ向けに開発したもの。オリジナルのサンプルを持参してセレクトショップの開拓に乗り出すが、これも山あり谷あり。
「7年通ってようやくお取引してもらえたショップもある一方、伊勢丹は早かったですね。決断力があったのだと思います」。
ときにはセレクトショップの会社前で、バイヤーがランチに出てくるのを待ち伏せて、偶然を装い、挨拶かたがた売り込みをしたり、百貨店に飛び込み営業をしたり。仙田さんの度胸の良さと、人当たりの良さは、商品の魅力以上の武器だったに違いない。ジワジワと業界に評判が広まる中、梅田阪急などとの取引も始めてもらえることになった。
コラム:仙田さんの仰天エピソード
目の前でネクタイを挟みでカット
大手アパレルとの取引をお願いに行ったときの仙田さんの話がおもしろい。先方のネクタイを事前に購入した仙田さんは、はさみとネクタイを持って会社を訪問。相手の事業部長の前で「色柄はデザイナーさんもいらっしゃるでしょうから、ちゃんとしていると思います。でも、縫製はどうなんでしょう?」と相手のメーカーのネクタイをその場でハサミでカットしてしまう。ついで、自社のネクタイもカットし、開いて芯地の違いを見せたほか、「アイネックスはハンドメイド、御社はハンドじゃありませんよね」と大胆に比較してみせたのだ。気の毒なのは相手先のチーフデザイナー。事業部長にその場で呼びつけられてしまったそう。「でも、そのデザイナーとは後にものすごく仲良くなって、いまだに良き友人ですよ(笑)」。いやはや、この度胸には脱帽するほかない。
次第に取引先が百貨店、セレクトショップなどへ広がり、アイネックスはいつの間にか一流のネクタイメーカーとして名前を知られるようになっていた。40歳の時には会社に提案して東京・恵比寿に立派なショールームを設置。
「イタリアではネクタイメーカーが洒落たショールームを持っているんですよ。ところが、日本のネクタイメーカーでちゃんとしたショールームを持っている会社はありませんでした。ショールームを作ったおかげで、取引先が足を運んでくれるようになったのです」。
40歳代で、仙田さんはイタリアのルイジ ボレッリ(当時)や、リヴェラーノ・リヴェラーノのネクタイのエージェントを始めている。着実に会社の業績を伸ばす活躍ぶりを見せる一方で、サラリーマン生活をいつかはやめようと思う気持ちも芽生え始めた。が、仙田さんが50歳のとき先代から会社を買い取って継承してほしいと申し出が。
いろいろと悩んだ末、借金をして会社を引き受ける決意を固めた。50歳のときに20億円だった会社の売り上げは、59歳の現在、40億円。クールビズ導入以降、ネクタイ業界は規模が縮小しているといわれるが、ポケットチーフを生かしたオシャレなど、新しい提案を打ち出して業績は順調に推移。決断は正しかったのだ。
ファッション業界を見ると、普通は企画、営業と得意分野があるもの。仙田さんのように企画力があって、営業もうまくこなせる方は珍しいのではないだろうか。抜群の人当たりの良さについて聞くと、幼少期、故郷で近所や親せきのお年寄りに囲まれて、可愛がられていたことで自然と身に着いたとのこと。業界の名物社長として、これからも類まれな才能を発揮されるのが今後も楽しみである。
コラム:仙田さんをスナップ!
取材時の気になる装いをチェック
順風満帆に進んできた仙田さんのファッションについて聞くと、社会人になった当初はビームスやユナイテッドアローズなどセレクトショップのオリジナルスーツのほか、ジョルジオ アルマーニを着ていた時代もあったそうだ。「基本はトラッドから変わっていません。今はイタリア物が中心。スーツ、ジャケットはリヴェラーノ・リヴェラーノやデ・ペトリロ、シャツはアビーノが多いですね」。
撮影/久保田彩子 取材・文/川田剛史