仙田さんのブランドが絶賛される
ここで仙田さんに幸運が訪れる。当時の勤務先の専務が非常に心の広い方で、好きにやっていいと仙田さんの企画を通してくれたのだ。ゴーサインが出たので、さっそく仙田さんはあちこちへ飛び回った。ある人気ブランドのシャツを手掛ける工場では、これは○×が、それは△×が選んでいたシャツ生地だよと見せてくれた。さらに、生地の原反が余っていると、人気ブランドと同じ生地、同じラインで製造しながら、良心的な工賃で協力が得られる幸運があった。また、先ほどの東京の友人からニット製品を仕入れたほか、マグカップが作りたいと新潟県長岡まで足を延ばすことも。

自分の企画でアパレルを手掛け始めた仙田さんの幸運はまだ終わらない。
「展示会を開くと、地元百貨店の専務さんが伊藤用品のコーナーを見て『これはスゴイ』というのです。これじゃ天狗にもなりますよね。そんなこんなで好き勝手に進めて『僕はネクタイなんか担当しないよ』となってしまったのです」。
ところがいいことばかりが続かないのは世の常。かわいがってくれていた専務がいなくなると百貨店の風向きがすっかり変わってしまったのだ。
「伊藤用品とはネクタイしかお付き合いしないよ、と言われてしまいました。おまけにネクタイもよくないし、売れないし。不満が溜まり、百貨店関係者の歓送迎会で飲みすぎて先方のお偉いさんに言いたい放題の無茶をしてしまったこともありました」
東京転勤で新規開拓に挑戦
しかし「出過ぎた杭は打たれない」が仙田さんの信条。今度はネクタイの企画で積極的に仕事をこなし、展示会で百貨店の役員から「いいね」と言われてまたも鼻高々に。それが26歳の頃のこと。
ついで28歳のとき、突然、東京勤務を命じられることになった。
「当時の会社の売り上げは5億円でした。東京の営業所では冴えない洋品店にしか営業していなかったわけです。人気の三峰、帝人メンズショップ、丸井、マルセル(当時、新宿伊勢丹の隣にあったショップ)に売らずにどこに売るのかと物申しました。すると、ある日、専務から『東京に行き、自分で売れ』と」。
しかし、地元にガールフレンドがいて、金沢にアパートを借りていた仙田さんにとっては、東京行きは望まない展開。そこで週に一度、地元に帰らせてほしい、金沢のアパートの家賃を払ってほしい、と無理な要求を会社にしてみた。思いがけず要求が通ったため、仙田さんは東京営業所勤務を引き受けた。