ブランドではなくものを見る目を養う
ほどなく2度めのパリ訪問の機会が訪れる。僕はそこで、ブランドというものに出会ってしまった。現地の日本人コーディネーターの女性が持っていたバッグがあまりにも素敵で、尋ねてみると「一生物だと思って買ったの。サンジェルマン・デ・プレにお店がある」と言う。すぐにそこを訪ねたのは言うまでもない。
間口の狭い小さな店内に、しっかりとした質感の革を使い、丈夫そうな金具を取り付けた鞄が並んでいた。僕はショルダーバッグを手に取った。当時8万円はかなりの高額だったが、「一生もの」という彼女の言葉が後押しした。そのブランドとはコーチ——呆れないで欲しいのだが、それがブランドのバッグであり、しかもアメリカのブランドだと知るのは、それから何年も後になってからだ。
帰国して、仕事場でオシャレな先輩方に会うと、口々に「その鞄、何?見せてよ。いいの買ったね」と言われる。果ては知り合いの鞄屋が、参考にしたいからと、つぶさに眺めてメモまで取る始末。これには驚いた。バッグの作りはもちろんだが、諸先輩のいいものを見抜く眼力の鋭さ!今、自分が逆の立場で「それいいね」と言えるかと思うと、覚束ない。
その後、何度となくパリを訪ねることになるのだが、最初の頃と今とで何が違うのかなと考えてみると、かなりブランドに毒されてしまった、……のかもしれない。ただ、コーチの一件で、ブランドに対してこういう考え方を持つに至った。諸先輩は、ブランドを褒めていたのではなく、鞄の材質や作りに感心していたのだ。ブランドは、品質の高い製品や歴史によって、ブランドになる。モノであれアートであれ、先入観を持たず、正しくものを見る目を養うことこそが、大切なのだと。
初めてシャンゼリゼで眺めた人々と同じか、それ以上の年齢になって、自分がどう見えるのかな、なんて思います。
─13区オーステルリッツ駅にて

俳優・中井貴一ではなく等身大・中井貴一として
パリでの楽しみのひとつがショッピングであることは、正直に告白しておかなくてはならない。ものを見る目を養う云々と御托をならべても、ブランドの抗い難い魅力に屈してしまうことは少なくない。そのエピソードは次回にするとして、ショッピングに留まらず、パリには街そのものに魅力が溢れていることも事実だ。
パリに滞在すると、僕はよく街を歩く。とにかくオペラ座付近の、ラグジュアリーではないけれど、街の風景になじんだ快適なホテルを拠点として、チュイルリー公園、ルーブルを経て、セーヌを渡り、サンジェルマンあたりまで散歩をするし、メトロやバスもよく利用する。特に、夏の朝のチュイルリー公園の心地よさときたら、幸福感でいっぱいになってしまうほどだ。歩いているだけで、普段出てこないような様々なアイデアが湧いてくるのも楽しい。空気感、歴史、建物……それらのすべてが、僕の好奇心を刺激してくれるのだろうか。
この連載を始めるに当たり、僕は最初にパリでシューティングをしたいと思った。これまでにも、何らかの仕事で撮影をした経験はあったものの、自前の服で、メイクもせず、俳優・中井貴一ではなくて、等身大の中井貴一として、ファインダーの前に立ったのは初めてのこと。
オシャレに対する眼を開かせ、ブランドのことも教えてくれたパリ。あれから30年を経た今、自分自身をパリの風景の中に置いてみると、どんな感じがするのだろう—-?それはきっと、「50歳を過ぎて、こんな中井貴一になったんですが」と、パリに呼びかけることのような気がして……ここから、僕の「好貴心」のスタートです。
《Paris-後編-》に続く
[MEN’S EX 2013年4月号の記事を再構成]
撮影/宮本敏明<パリ> 若林武志<静物> ヘアメイク/藤井俊二 文/中井貴一 構成/まつあみ 靖 コーディネート/南陽一浩