
時代を造ったクルマたち vol.06
“手軽なスーパーカー”にオーダーが殺到するも…
1971年のニューヨーク・モーターショーでデビューを飾ったデ・トマソ・パンテーラにはオーダーが殺到した。当時、最新のトレンドであったミッドマウントエンジンのスーパーカーは、まだ希少なものであったし、総じて高価だった。一方、パンテーラはフェラーリやマセラティの半額ほどの販売価格であり、フォードのリンカーン・マーキュリー販売店へオーダーするだけで入手可能というお手軽さであった。そう、北米のカーガイにとって、パンテーラの登場は、マスタングのミドマウントエンジン版が誕生したかのようなタイムリーなニュースであったのだ。

ところが連載前回でお伝えしたようにデ・トマソ社はそれまで年間100台生産するのが精いっぱいという手作り少量生産メーカーであった。大会社フォードのような緻密な品質管理の経験もなかったし、クルマ自身に対する信頼性への考え方も異なっていた。イタリアの少量生産スポーツカーとは、乗り手がそれを手なずけるモノであって、少々の不具合があっても、後から直していけばよいという考え方で楽しむモノであった。ところが、北米の顧客達はそんな文化とはほど遠いところにいたのだ。クルマはガソリンさえ入れれば走るモノであり、ヒドい故障などが起これば、それはメーカーへの訴訟騒ぎともなり得た。

さらにフォードがデ・トマソ社へ要求したのはデリバリー時期の厳守であった。ゼロから開発するクルマであり、まだ経験値も乏しい大排気量ミッドマウントエンジンカーは、モデナの名人たちによって奇跡的に短期間で完成したものの、フォードが指定した年間2000~5000台という生産規模は未知の世界であった。そもそも、北米へテスト車両が届いたのは、デリバリー直前であったから、ほとんど公道テストは行われていなかったと言ってよい。
「この地上最低高では街中を走るのは無理だ」というレポートが開発陣の一人であったジャンパオロ・ダラーラに届いたのは、デリバリー直前であったし、デザイナーであったトム・チャーダへは「ハイウェイではフロントがリフトして危険なこと極まりない」というクレームがフォードより直接届くというとんでもない混乱状況になっていた。

フォードにしてみればモデナのデ・トマソ社などというものは吹けば飛ぶような小さな下請けであり、フォードが全てをコントロールして当然と考えられていた。そんな件は映画「フォードvsフェラーリ」で描かれていた構図と等しい。しかし、エンツォ・フェラーリ以上にデ・トマソ社のオーナーであるアレッサンドロ・デ・トマソは曲者であった。フォードから派遣されたスタッフはプロジェクトの核心部へは決して触れさせなかったし、いろいろな改善要求に対しても適当な口実でお茶を濁したのだった。